首なし娘事件(増淵倉吉)

首なし娘事件は、愛知県名古屋で起こった
殺人事件。遺体の切断状況や増淵倉吉の自殺方法など
常軌を逸した事件として記憶されている。

事件のあらまし


1932年2月8日、愛知県名古屋市日比津野字野合(現在の中村区米野町)にある
鶏糞小屋で、小屋の所有者の長男が、若い女性の腐乱死体を発見した。

遺体には首がなく、警察が検証のため遺体の着物を開けると
乳房とへそ、陰部がえぐり取られていた。

遺体のそばにあった遺留品から、遺体の身元は岩田ますえ(19歳)であることがわかった。
さらに、遺留品にあった和菓子職人 増淵倉吉(43歳)への手紙の文面から
二人は恋愛関係にあることが容易に推測でき、警察の聞き込み調査により
東京から舞い戻ってきた倉吉とますえが、最近旅館で頻繁に合っていたことがわかった。

警察は、倉吉を指名手配して行方を追い始めた。

2月11日、木曽川河原で、ますえの頭部を発見。
ますえの頭部は、頭皮と毛髪が剥ぎ取られている上
両目もえぐり取られているという凄惨なものだった。


そして、3月5日、掃除のために別棟の物置を明けた
茶店「見晴屋」の主人が、死後1ヶ月ほど経過している
腐乱した首吊り遺体を発見した。


ぶら下がっている遺体は中年男性であったが
その異様な姿には、誰もが目を疑った。

女性の毛髪が継いた頭皮を頭から被り
女性用の毛糸の下着と洋服を身に付け
手にはますえの遺留品である赤い手袋をはめていた。

ポケットに入っていた女性ものの財布の中には
眼球が入ったお守りが収められていた。

さらに小屋の中を捜索すると
冷蔵庫の中にますえの体から切り取った乳房と局部が置かれていた。


言うまでもなく、この首吊死体は倉吉であった。


増渕倉吉について


増渕倉吉は、1889年に群馬県で生まれた。

皮なめし職人を経て高崎で和菓子を学び
その後和菓子職人として東京で和菓子店を営むようになったが
1923年の関東大震災で店を失ってしまった。

店を失った倉吉は、仕事を探すため
妻と子供の元を去り、旅に出た。

旅の途中でつやという女性と恋仲になり
名古屋で所帯を持つと、倉吉は饅頭工場で働き始め
つやは裁縫教室を開いて近所の娘たちに裁縫を教えはじめた。

ますえは初めつやの裁縫教室に通う生徒であったが
つやが体調を崩して裁縫教室を閉めると
つやの身の回りの世話をするようになる。

こうした生活において、倉吉とますえの距離が縮まり
いつしか二人は関係を持つようになる。

看護の甲斐もなく1931年、つやが病死すると
倉吉は饅頭工場を些細な喧嘩で辞職。

仕事を見つけるため
再び東京へ上京することを決心する。


倉吉が一人で上京することに
ますえは反対したが、なんとか諌めて上京。

しかし仕事はうまく行かず
結局名古屋に戻ることになった。


貯金もほぼ底をつき、定職がなく
収入のめどが立たずに将来に不安を覚えた倉吉は
ますえと無理心中することを考えはじめるようになる。

ますえと昼も夜もなく情事にふけったあと
ついにますえを例の鶏糞小屋に連れ込み、絞殺するのである。




倉吉が自殺してしまったので
これは不起訴処分になったのでしょうか。

いずれにしても
その猟奇的な最期から
後々まで語り継がれる殺人事件であることは確かです。


倉吉は昔から
神仏の信仰に熱く、死後の世界を強く信じていたそうです。

現実での生活を悲観し
ますえとは一緒に暮らしていけない
ならば死んで死後の世界で一緒になりたい

こうした強い倉吉の思いが
ますえの遺体をバラバラにし
その一部を身に付けた、という行動を
説明できるのではないでしょうか。


とはいえ
もう少し別な愛情表現があるのではないだろうか
と考えてしまうと、なんとも後味の悪い結末ですね…

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